不妊治療の通院2年を経て、妊娠21週で退職しました。出産まで、ゆっくり準備をする予定でした。妊娠が分かったころに、新居に引っ越したので、家の片づけなどもボチボチする予定でした・・・
不妊治療までの話しはこちら
切迫早産で入院
ところが、妊婦検診25週に診察にいつも通りに行くと、医師が
「えっ?えっ?」
と言い出し、私もとてつもなく不安に。
医師曰く、通常、出産近くまで40mmほどある子宮経管が、19mmしかないとのこと。
イメージで言えば、大きくふくらんだ風船をお腹に例えて🎈、キュっと縛って、チョロッと出てるゴムの長さが子宮経管です(拙い表現ですみません😅)。
この子宮経管が早々から短いと、お腹がはると(風船が膨らむと)縛ってる部分が外れる可能性あり、破水に繋がる危険性を伴います。
妊娠も初めてで、子宮経管という言葉も初めて知り、不安でいっぱいでした。
着のみ着のまま、そのまま入院することに。
そして、お腹がはると良くないので、子宮収縮抑制剤の点滴を付け、お手洗い以外はなるべく動かず、ベットの上で横たわってるようにと指示を受けました。
新居の片づけに、のんびり平日昼間を過ごし、ゆっくり出産準備をする予定がーーー😭。
落ち着いて、子宮経管や切迫早産のことを調べると、子宮経管無力症というのもあり、前触れなく、急に子宮の出口が開いて出産に至るという病気もあること知り、どんどん不安になりました。。。
そして、一日でも長くお腹に赤ちゃんがいることが大事だとも分かり、何がなんでも、お腹に留めておこうと一日一日が必死でした。
こんなに早く月日が流れてほしいと思ったことはありません。
母の出産
実は、母は、私の弟を30週で早産しています。
そういう意味では、子宮経管の短いのは遺伝かもしれません。
現代と違い、まだ医療も整っていなかったので、それはそれは心配したという話しをよく聞いていました。
弟は、産まれた瞬間から色んな管に繋がれ、血管が痛々しく、本当に可哀想だったと言っていました。
ただ、実際、弟は元気に育っていますし、小さく産まれたものの、今は身体もガッシリしていますので、そこまで深刻に受け止めていなかったし、母の苦労も本当のところ、分かっていませんでした。
入院した瞬間に、今更ながら、母の当時の様子が少しばかり理解できました。
母は、お姑さんも実の母も(どちらも私のおばあちゃん)、私が1歳になるまでに亡くしています。
だから、私はおばあちゃんのことを覚えていません。
母は、子育てで頼る人がいなくて、自分が倒れてはいけないと、常に気負って過ごしていたと言います。
弟の出産は、思いもよらず、2ケ月早く陣痛が来て、自分のことより、私(当時2歳)の預け先に困ったそうです。
近所のお迎えの人に私を何とか預けて、自分で救急車を呼び、そのまま救急車で運ばれたようです。今、思うと、本当に大変だったと思います。
幸い、そのままゴールデンウィークに突入したので、母が入院中は、私は父と過ごしたらしいです。
そんな経験もあり、母はいつも、
人生何とかなるようになるもの
…と言います。
なので、私はその言葉が常に頭にあり、人生の教訓になっています。
入院中
話しは逸れましたが、私は25週で入院することになり、27週で、子宮口が開かないように紐で縛る「子宮経管縫縮術」という手術をしました。
この手術で使った紐は順調にいけば36~37週の時に抜糸するようです。
病院の方針にもよるかもしれませんが、もしこの手術をして、状態が落ち着いていれば、退院してゆっくり家で過ごすことも出来るようですが、私は、一人目でしたし、子どもは他にいなっかたので、のんびり入院することにしました。
医師も退院して良いと言わなかったので。
結局、8月末に入院して、退院したのは季節も変わり、出産後、12月初旬でした。
入院中、悪いことばかりではありませんでした。
同じような症状で入院した人たちが、同室に4人いました。
同じくらいの週数だったので、みんなで励まし合い、色んな話しをしながら、賑やかに過ごしました。
分からないことがあれば、一人が代表で医師に聞き、みんなでその答えを共有していました。
私はとりあえず、弟が30週で産まれた30週までを目標に過ごしました。
実際、弟は元気に育ってるのをみているので、30週までもてば何とかなる…。
30週を過ぎれば、1週…1週…1日でも長く…をみんなで目指しました。
25週からずっと安静で、産んでから体力がないのに大丈夫なのか…など、不安は尽きませんでしたが、とにかく赤ちゃんのため1日でも長く…後期になってくると、お腹も大きく、ますますお腹ははりやすくなって、食事をするたびに、気分が悪く、後期づわりというのも始まりました。
狭いベットで点滴を一日つけたまま、寝苦しい日もありました。
それでも、出産すれば自由に動ける、元気な赤ちゃんに会うことだけを夢みて頑張れました。
再び母の入院
入院中、車で2時間ほどかかる実家から、父母が10日に1回の割合で、色んなお菓子を持ってお見舞いに来てくれました。
本当にありがたい。
そして、お見舞い後、仕事で忙しく、食べ物が疎かになっているであろう夫のために自宅にも寄り、色々食べ物を置いて帰ってくれました。
歳老いて、本当に大変だったと思います。
いつまでも親って有難い。
病気を克服して元気になってる母ですが、治癒後の定期健診の名目で定期的に病院には通っていて、その定期健診がどうだったか、母にいつも聞いていたのですが、32週の頃、電話で身体の調子はどうか母に聞いたところ、言葉に詰まったのが気になったことがありました。
そして、その後、お見舞いに来てくれた時に、再発ではなく、また別で、胃がんが見つかったと聞きました。
きっと、私の週数が上がるのを待っての、私への報告だったと思います。
赤ちゃんの予定日までに、来週、入院・手術をして、退院しておきたい。なので、心配せずに、出産後は実家へ帰っておいで…とのことでした。母は淡々と話し、絶対、大丈夫だからといつも通り笑顔で帰って行きました。
私も、なるべく不安な顔は見せず、こっちは夫もいるので大丈夫だから、お母さんも頑張って…と言って見送りました。
そして、父母が帰ってベットの上で、みんなに気づかれないよう、泣きじゃくりました。
母はきっと、私がベットで泣いてるのを知ってると思います。
それから母が入院するまで、毎日のように電話をくれ、他愛ない話をして切りました。
前回の入院と違い、母の退院後に元気な赤ちゃんを見せれるというのが、唯一の救いでした。
私は、退院後に産まれたての赤ちゃんを連れて帰るのは、母に無理をさせるのではと悩みましたが、母を助けるために、出産後に実家へ帰ろうと思いました。
(実際、私の方が助けられたのは言うまでもありません)
お姑さんは身体が弱く、私には母がいてるから安心だわと言ってくれてましたが、母の事情を知って、出産後にこちらに来てくれても良いと、有難い言葉をいただきました。
でも、私が退院後の母を助けたい一心で、すごく有難かったですが、実家に帰ることにしましたが、
身体の弱い自分のことはさておき、呼んでくれたことは本当に心強かったです。
出産〜無痛分娩〜
37週で安定期に入れば、実家近くの大きな病院で出産しようと予約していました。
36週に、母の手術が無事に終わりましたが、胃を3分の2ほど切っているので、本当にしんどかったと思います。
いよいよ退院する37週に入る前日、手術していた「子宮経管縫縮術」の抜糸をしました。
あー明日、やっと退院できる。
母が入院中の実家に帰るのは少々、心配でしたが、赤ちゃんを迎えるための布団など、全部、実家で用意してくれるとのこと。
さすが母です。
本当にありがたかった。
抜糸をした後、陣痛が来るという話しを聞いていて、もしかしても私もそうなるかも?
でも、明日は父が迎えに来て、実家に帰り、実家近くの病院で出産予定だったので、陣痛がきたら困るなと思っていたら、ベットに戻って、まさに陣痛らしきものが!!!
えっ?痛い。
生理痛のようなものが…
看護師さんに連絡すると、まさに陣痛がきているとのこと。
えー!?
このクリニックでは、麻酔分娩もしていて、母にも頼れず、夜中でしたので、夫を呼ぶのもいつ産まれるか分からなかったのでもう少し待とうと、でも、初産で一人で不安で仕方がなかったので、無痛分娩を選択しました。
背中から注射をするのが痛いと聞いたことがありましたが、ここのクリニックの医師の腕が良かったので、そこまで痛くありませんでした。
夜中から陣痛が始まりましたが、無痛分娩のおかげで、そこまで痛くなく、ただ、いよいよ出産というときに、痛みの波が分からず、看護師さんの今いきんで…という声だけが頼りでいきみました。
痛いと自然に赤ちゃんを出そうと、もう少しうまくいきめたかもしれませんが、どういきんだら良いのか分かりにくかったです。
夜中0時に陣痛らしきものがきて、無事産まれたのは翌日10時過ぎでした。
泣き声が聞こえ、少し抱っこして感動したのも束の間、出血がひどかったようで、ベットの頭が下がり足元が上がり、看護師さんがバタバタしているようでした。
私は、100メートルを走った後のように呼吸が荒くなり、とてもしんどく、看護師さんが、何度も私の名前を呼びました。
そして、医師も来て、
これ以上、出血がひどくなれば、輸血をしますが、保険がききません、よろしいですか?
…と聞かれ、そんなに高いのか…と聞くと、
数万円とのこと。
えっ?それくらいならわざわざ聞く金額でもないし、高いとしても命には代えられないと、
お願いします…と何とか答えました。
看護師さんが私の子宮を何度も押しているようでした。
数時間後、何とか出血も収まって来たようで、輸血をせずに済みました。
ただ、すごい貧血状態で、立つとめまいがひどいため、立ち上がる時はしばらく看護師さんに見守ってもらいました。
絶対安静の日が続いたのも手伝って、歩くのもやっとでした。
こんなんで育児が出来るんだろうか、出産を聞いた夫やお姑さんが来てくれましたが、しんどくてゆっくり話すのもままならず、赤ちゃんとの対面が嬉しいという気持ちより、この先の体力が回復するのか、不安でいっぱいでした。
それでも、まだ入院中の母に、出産の報告の電話を泣きながらしました。
お母さん、赤ちゃん、産まれたよー!!!
お母さんも、手術、頑張ったね。
ほとんど泣いたのを見たことがない母も、電話口で、良かった良かった!と泣いているようでした。
その後、2人で電話越しで無言で泣きました。
父も、退院する予定の私を迎えに来ることになっていたので、お菓子を持って来てくれました。
父は、私の貧血の状態を心配してくれているようでした。遠くまで有難う。
出産は日にち薬とはよく言ったもので、鉄剤の注射なども打ってくれ、日に日に体力も回復していきました。個室に移り、慣れない授乳も少しづつ始め、なんて大変な!と思いましたが、腕の中でスヤスヤ眠る赤ちゃんは本当に愛おしい。
こうして、何とか、長女の初めての出産を迎えました。
初産で35歳以上を高齢出産というようなので、この時私は34歳。
ほぼ、高齢出産ですね。
気力と体力はマイナス5歳を目指ざそう!!!
娘の寝顔を見ながら思いました😃。
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